2005年05月15日

短編小説「未練」 その2 片岡 永


    未  練                             
           片岡 永

ラーメンというより、中華そばと呼ぶほうが一般的だった。赤い縁取りをした縦長の紙にメニューが書かれ、店の壁のあちこちに無造作に貼り付けてあった。完治は太い首をねじってメニューを見回し、その視線を武男に移して止めた。
「なんでも好きなん食うてええんやぞ」
 武男は完治の顔を見、隣の登美子を見た。
 登美子はうなずき、
「何がええんや?」
「ああ、遠慮すんな」
 他に客はいなかった。壁の角には三角の形に天井から板が吊り下げてあり、その上にテレビが乗せてあった。エプロンをした女が椅子に登り、歌番組にチャンネルを回した。それからゆっくりと元のテーブルに戻り、頬杖をついてテレビを見ていた。
「それであんた、何を注文したか覚えているか」
 武男は煙草を地面に落として踏み消し、
「覚えてるかいな。何年前の話や。俺が三年生の時やさかい、二十年近う前やないか」
 登美子はふくふくと思い出したように笑いながら、
「さんざん考えて迷った揚げ句に中華そばがええってゆうたんや。せっかく最後の食事やさかいもっとええもん食べりゃええのに。おとうちゃんもなんや気が抜けたみたいに笑いながら、そばがええならそれでええやないか、ゆうてなぁ」
 三人とも黙ったままでいた。
中華そばをすする音とテレビからの歌声だけが聞こえていた。完治だけはギョウザとビールを別に注文した。
「ほれ、武男もひとつ食え」
 返事をする前にそばの上にギョウザを載せられた。おとうちゃん仕事で遠いとこ行ってしまいはんねん、もうしばらく会われへんけど、おかあちゃんと二人で留守番しとこうな。母はそんなことを何度も言い聞かせるように言った。
「いつ帰ってきはるの」
 武男は箸を止めて顔を上げ、完治に尋ねた。月に一、二回ほど、それね一晩だけしか会わない父親に対して、子供言葉でもそんな喋り方をした。思い出す父親はお土産を持ってやってくるおじちゃんであった。
「さあ、いつになるやらわからんなぁ」
「また、お土産買ってきてな」
「今度会う時はぎょうさん持ってきたる」
 母がハンカチを出して鼻を押さえていた。
完治の後ろに見えていた女が、テレビを見ながら欠伸をした。
「なあ、家帰ったらトランプしよう?なぁ」
 向かいの完治を見、隣の登美子を見た。
「今学校ではやっているやつ、教えてあげるさかい、なぁ」
「ああ、やろう」
 武男は嬉しそうに完治を見上げ、うなずいた。そして、勢いよく中華そばをすすり込んだ。完治はコップに残っていたビールを飲み干した。店の奥からパジャマを着た幼稚園くらいの女の子が出てきて、テレビを見ていた女の腕を引っ張った。もうすぐしまうさかい、と女は面倒臭そうに言った。
 駅前商店街の多くはすでに店を閉じていた。武男を真中にし、三人は並んで歩いた。武男はそっと、何も言わずに完治の手を取った。驚いたように完治が「ン」と声を出し、それを見た登美子が「まあ」と言った。
「どうしたんこの子。急に甘えたりしてから」
「かまへん、かまへん。武男は本当はとうちゃんのこと好きなんや」
 そやろ、と武男を覗き込んだ。武男は黙ってうなずいた。「武男。肩車したろか?」完治は腰を降ろして頭を下げた。武男は完治の肩にまたがりながら、この人に肩車をしてもらうのは何回目だろうかと考えたが、今までしてもらった覚えがなかった。今日はこの人に甘えなければならないという意識が武男にはあった。そうすることが今日の自分の役目なのだと思っていた。なぜ父が月に一度ほどしか帰ってこないのか、なぜこれからしばらく帰ってこなくなるのか、武男には詳しい事情は分からなかったが、もうこの人とはずっと会えないんじゃないかという怯えのようなものが幼い心の中に淀んでいた。
今朝、久しぶりに帰ってきて、母と真剣な話し合い、母が涙を浮かべながらうなずき本当に珍しく外で御飯を食べたという出来事を武男はそんなふうに捉えていた。そして武雄の幼い心の直感は当たっていて、その日以来、武男が完治に会うことは今日までなかった。高校卒業した後、登美子はその日のことを「おとうちゃんにはちゃんとした奥さんや子供がいはったんや」と説明した。ちゃんとしたってどういうことや、僕らの家はちゃんとした家庭とちがうんかと食いついたが、自分で言いながらそのことは薄々感じていたことであった。
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(未練 その3につづく)

By myfont @ 12:49 PM | 未練 | コメント (0) | トラックバック (0)

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