2005年05月15日
短編小説「未練」 その3 片岡 永
未 練
片岡 永
去っていくと決まった者に強い愛情を示す変な性格、と母は笑った。
「もういまさら遅いやないか」
武男の煙草を一本抜き取り、煙を吐きながら母は言った。「今までは汚れとってもほっぽらかしやったのに、明日売るゆう時になって一生懸命磨いてもしょうがないやろうに」
「いよいよ離れるとなったら、無性にいとおしゅうになってくるもんやろ」
そうか、母は首をかしげた。
「わたしやったら反対に憎らしゅうになるけどな」
「車には意思がないんやんか。売ると決めたのは俺やもん」
そう自分で言いながら貴久代の場合はそうではなかったと思いついた。彼女も母と同じ意味を言ったのだった。
デート代は割り勘と決めていた。そのほうがお互い長続きするから、最初の頃の貴久代の提案だった。食事にいって飲みに行ってもカラオケに行っても、勘定は半分ずつ払った。しかし最後の日は、食事にいったバーの代金も武男がすべて払うといってきかなかった。そして最後のプレゼントにとピアスも買った。どうして、と貴久代が尋ねた。
「最後ぐらい格好つけさせてくれや」
「もう会わないようにしようといった女にお金使うことないじゃない」
「いままでお世話になったお礼や」
貴久代は笑いながら、
「普通なら反対じゃないの。これからモノにしようという女にお金に使うけれど、別れる女には使わないでしょ」
「そうかなぁ。別にこ難しいことじゃないんや。素直に今までのお礼の気持ちなんや」
「あんたは本当に良い性格なんやね。その性格好きやし、ずっと大事にしとってね」
何度も行った大阪湾に向かって車を走らせていた。もう会わなくなると思うと、すべてのものがいとおしく思えた。この道も、この町並みも、今かかっているこの曲も、全てものが貴久代に結びついて思い出されるだろうという予感があった。コンクリートに固められた岩壁を歩きながら、河口を渡る高速道路の街灯を見ていた。何度も何度も二人で眺めた夜景だった。
「私にくれた周五郎の小説の中で、風鈴っていう作品覚えてる?」
武男は首を振った。
「主人公の女性の夫がこう言うの。大切なのは身分の高下や貧富の差ではない。人間として生まれてきて、生きたことが、自分にとってむだでなかった。世の中のためにもすこしは役立ち、意義があった。そう自覚して死ぬことができるかどうかが問題だと思います、って。そう言われてその奥さんも、自分がいかにあさはかな無反省な事だったかって気が付くの。私ね、いつもあなたに甘えてばかりいたように思う。少しも自分で生きていなかった。いま、自分で生きるために自分にできることはなんだろうって考えて、とにかくこの甘えを断ち切る事だと思いついたの。間違っているかもしれないし、とんちんかんなことやってるかもしれない。でもそれしか思いつかなかった。あなたのこと嫌いになったわけじゃないし、このままずっと会わないでいるわけでもないのよ。もうすぐ新しい車来るんでしょ。ほんとに、一緒にキャンプ行きたかった。でも、そうしているとずるずるとなってしまいそうで、やっぱり今が思い切るときかなって」
貴久代は武男の顔を見上げ、
「ごめんね」
と言った。武男は静かに首を振り、
「分かった」
と言った。

(未練 その4につづく)

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