2005年07月01日

爽やぎの雨 その2


  爽やぎの雨 その2
片岡 永
 


 四月に定植したトマトの苗が、もう背の高さほどにも成長していた。成長はしたが、細くいかにも頼りなげで、支柱がないと立ってもいられない状態だ。葉も少なく、その葉にも茶色い穴が無数に開いている。葉を裏返してみて慎一郎は驚いた。ナナホシテントウと同じほどの大きさなのだが、斑点が二十八個あるニジュウヤホシテントウがびっしりと張り付いていた。ナナホシテントウはアブラムシを食べる益虫なのだが、ニジュウヤホシは葉を食害する。
 葉裏に張り付いた虫は、蠢きながら葉を囓っている。囓る音さえ聞こえてきそうな程だ。見ていて寒気がした。彼は葉を揺さぶって虫を落とした。落ちた虫は長靴で踏み潰した。
落ちずに飛び立つ虫が一面に散り、彼の首筋や胸元にも入り込んできた。シャツのボタンを外し、首筋を開き、体を二つ折りにして背中にまで入った虫を叩いて払い落とした。落ちずに首や肩で潰れた虫は生臭い臭いがした。違う葉を裏返すと、やはり同じようにびっしりと虫が張り付いている。揺すり落として踏み潰すのが面倒になり、葉ごとちぎって握り潰した。掌の中に甲虫の小さく固い感触があり、力を込めるとぷつぷつと潰れた。ニジュウヤホシテントウはいくら潰しても、数日して来てみた時には、同じように葉裏に張り付いているのだった。そうして間もなく十本植えたトマトは、全て枯れ果ててしまった。
 個人農家が果樹園の一角を家庭菜園用に貸す畑を、昨年秋から借りていた。一区画が縦五メートル、横三メートルのわずか十五平米で、年間六千円。それを五区画で、年間三万円払っている。農家が聞けばびっくりし、馬鹿かと笑うほどの賃料だ。しかし畑を持たぬ者にとっては、そんな馬鹿みたいに高い賃料を払ってでも貸してくれることが有り難かった。そこに五メートルの畝を作り、大根を植え、白菜や春菊を植えた。殻を破り、土から現れる小さな小さな芽を見つけると嬉しかった。
 春になると馬鈴薯を植え付け、シシトウやオクラや葱、ほうれん草、枝豆、人参、苺、キュウリ、茄子、トマトなど、ホームセンターで種や苗を買ってきては何でも植えた。何を何時、どういう植え方をすればいいのかさえ判らなかったから、教科書を見ながらとにかく何でも植えてみた。
 全滅したのはトマトだけではなかった。茄子もニジュウヤホシテントウに襲われ一個の収穫もできなかったし、枝豆も順調に生育しようやく莢を付けたが、ある時からカメムシに襲撃され、成長した莢は養分を吸い取られて脹らまず、成長途中のものはそれ以上大きくならなかった。カメムシは枝豆の葉の上で交尾をしていた。見回すと、あっちでもこっちでもしている。目を近づけてみても逃げようともしない。動物のように腰を動かしはしないが、何となく気持ちよさそうな顔をしている。自分は随分と交尾をしていないのにと慎一郎は溜息を吐いた。彼らの乗っている葉を静かにちぎり、地面に置いた。そうして「失楽園じゃい」と言いながら、長靴で一気に踏みつぶした。
 それでも本当にわずかの枝豆らしきものを持って帰り、鍋に淋しく浮かべて湯がいてみた。食べてみると、枯れた苦い味がしてとても食べられたものではなかった。湯がいた莢を開いてみると、小さなカメムシがそのままの形で入っていた。口中に残っていた苦い豆を慌てて吐き出した。
 夏の盛りの日曜日、慎一郎は四度目の西木を訪ねた。六本入りの缶ビールを下げて行った。西木はキュウリのハウスに居た。何段にも横に張った糸にキュウリの蔓を這わせる誘引作業の最中であった。
「おう、ええところに来たなあ。ちょいと手伝ってくれや」
 西木はビニール紐をキュウリの枝に三度巻きつけ、それを横糸に引っ張り上げる方法をやって見せ、「判るやろ。それをずっと向こうまでな」
 ハウスの奥行きは五十メートルはありそうだった。西木とは作業している列が離れているので話すこともできず、慎一郎はただ黙って誘引作業を行った。しかしこうして気楽に声を掛けてもらえるようになったことが嬉しかった。
 先にひと段落つけた西木が、一服しようかと声を掛けてくれた。ハウスを出ると風が心地よかった。並んで腰を降ろし、煙草を点けた。西木がビールのお礼を言い、間を置いて続けた。
「振興課の広瀬がな、ああ、そこの課長が広瀬って言うんやけどな、この前そいつに話をしたんや」
 西木は隣の慎一郎の顔を見、また前に視線を戻した。「そしたらな、なんや渋ってるんやな。何でやって訊ねたら、ここは町の農業振興基金で建てたハウスやから、基本的には町で現在農業をしている人に貸すもんやって。新規の、それもよその町から来た人には貸せんって言いよるんや」
 慎一郎は、そうですかと小声で頷いた。
「いやまあ、そない落ち込むな。もういっぺん話したるがな。なんぼそうやとしても、現実には借りる者がおらんと空いてる状態や。実際の話がな」
 西木は慎一郎の顔を覗き込んで続けた。「わしらも空いてたら困るんや。ハウスに水を引くためのポンプがあるやろ、あれの維持管理はここの五人でやってるんやが、一人でも抜けたらその分負担が大きゅうなる。早う誰かに入ってもらった方が、わしらも有り難いんや」
「ここを借りてた人は、どうして辞めたんですか。こんな立派なハウスやのに」
 なんや、と西木は言った。「お前さんはそれも知らんかったんか。野田君から聞いてなかったんかいな」 そう言って、少し躊躇する表情を見せた。
 この高台に立っている硬質ビニールハウスは町が農業振興基金で建設し、全部で十五棟ある。それを地権者である地元の農家六人で借り、ハウス組合を設立した。初年度は順調な滑り出しを見せたが、二年目の秋に最年少だった四十八歳の男がハウスで自殺した。原因はギャンブルで作った借金だった。
「おおそうや、ビール飲もうや。せっかく買ってきてくれたんやからなあ。ちょいとぬるうなってしもたが、あんたも一本飲みいな」 プシュリと栓を開け、ぬるいビールを口に含んだ。西木が続けた。「まだ夜の明ける前やったなあ。玄関の戸をどんどんどんどん叩くから、わしが出てみたらその男の嫁はんや。唇わなわな震わせて、泣きじゃくりながら、お助け、お助けって言うんや。何ごとや、どないしたんやって彼女の肩を揺すったら少し落ちついて、うちの人が、ハウスでって。訳も判らんけど、とにかく行こうって一緒に付
いていった。彼女の懐中電灯を頼りに、ハウスまで歩いていったんや。近くまで来るとわしの腕を取って自分は顔を背けて、ハウスを指さすんや。そこでわしはピンと来たが、それを口にしたらあかんと思うて、どないしたんや、怪我でもしたんかって聞いた。彼女は震えながら首を振って、吊った、吊ったって。想像した通りや。わしかて気色悪いけど、ここまで来たらしゃあないがな。懐中電灯取って、先に歩いてハウスの戸を開けた。丁度真ん中へんでな、天井からロープ吊して、ぶらんと下がとったわいな。下には脚立があったさかい、それに乗って吊ったんやろう。まだ生きてるかもしれんからとにかく降ろそうと思うたけど、わし一人じゃあロープが外せんし、ロープを切ろうにも刃物がない。そこらに鎌がないんかって聞いたら、どっかにあるはずやって、懐中電灯持って探しに行った。
その間わしは脚立に上がって、そいつの体を持ち上げとった。だいぶ時間が経ってたとみえて、もう指の先まで冷たかったわ。もうあかんなと思うたな。それでも彼女が探してきた鎌持って、しっかりと下から抱えとけよって言うて、頭の上のロープを切った。女に抱えられるはずもなくて、嫁はんと一緒に畑に転がってしもうたな。丁度そこへうちの奴が来てな、すぐに救急車を呼んだんや」
 西木につられ、慎一郎も煙草を点けた。二人とも黙ったままでいたが、煙を吹き出して西木が、
「もう三年も暮れるかいな。嫁はんや子供は、葬式が終わったら逃げるように出ていってしもうた。わしにだけはお礼の手紙残してな。どこに行くとも、残されたハウスや機械をどうせいとも書いてなかった。中見たやろ。草ぼうぼうやったろうが。あれでも周りだけはわしが草刈りしてるんやで」
「それにしても、何もハウスで吊らなくってもねえ」
「丁度ええ梁があるやろ。あそこにロープ掛けたんや」
 夜明け前の真っ暗なそのハウスで、小さな明かりを灯し、ひとりアスパラの収穫作業をしている将来の自分の姿を慎一郎は想像してみた。作業に疲れ、腰を伸ばそうとふと見上げると、梁から黒いものがぶら下がっている・・・。煙草を吹かし、しばらく考えてみたが、腹が決まるとそれでもいいと思った。
「じゃあ、もし借りられたとしても、その奥さんが帰ってきたら、明け渡さないといけな
いんでしょう」
 西木は首を振った。
「帰って来やせんじゃろう。実家が九州でな、そっちで水商売しとると噂で聞いたが。まあ元々百姓の好きな人やなかったからなあ、今さら帰ってくることもなかろうで」
 二人は時間を掛けて一本のビールを飲み干した。
「この下に」
 と慎一郎が切り出した。「蒲鉾ハウスの骨組みだけ残された二反ほどの露地があるでしょ。
あそこは誰の持ち物なんですか?」
「斎藤って言う、この先でトマトやってる奴の土地や。二年ほど前までそこで茄子をやってたんやけど、手が回らんようになって放りっぱなしや」
「あの露地を貸してもらえないものでしょうかねえ」
 西木が慎一郎を見た。
「なんや、そんな話聞いたからハウス借りる気がなくなったか?」
「いや、そういう訳じゃないんですが」
「あんたなあ、ハウスも借りたい、露地も借りたいって、百姓もしたことない人間がそんなできると思うてるんかいな。逆立ちしたってできやせんよ」
 西木は長靴の踵で煙草を踏みつけながら、
「ほんまに百姓したいんかいな。なんか変なことでも企んどるのと違うやろうなあ」
 いつもは柔和な西木なのに、その時の目は笑っていなかった。

By myfont @ 06:52 PM | 爽やぎの雨 | コメント (0) | トラックバック (0)

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