2005年07月01日
爽やぎの雨 その3
爽やぎの雨 その3
片岡 永
慎一郎が久しぶりに平沼と会ったのは、その週末の夜だった。先に来た慎一郎がカウンターで飲んでいるところへ平沼がやって来た。
彼は五つ上の四十五歳だが農業塾の同期生で、昨年就農した新規就農の先輩である。青汁の原料となるケールを隣町で一町五反栽培している。
「暑かったでしょう」
慎一郎がビールを注ぐとそれを一息で飲み干し、
「脳味噌がとろけるかと思うほど暑かった」
と笑った。早朝から畑に出てケールの手入れをし、日中は青汁の配達に行く。そして夕方また畑に戻り、収穫作業と納品をするのだと話す。彼はケール栽培のほかに、それを原料とした青汁の販売も兼ねている。新しく立ち上げた青汁会社に納品しているため、生産者も手伝わないと自分のケールが捌けないと言うのだ。そのため土日には近くのスーパーや朝市で試飲会を開いたり、新規顧客開拓の営業活動にも時間を取られている。しかしそこまで働いてもまだ食えないからと、定植を終えてから収穫までの三月間は現金収入のためにアルバイトをしているのだ。サラリーマンである慎一郎の倍も働き、収入は慎一郎よりも少ない。
「永峰さんもやってみると判るよ。これが百姓の現実なんや」
と先輩平沼はよく話している。
慎一郎が今日、平沼に会いたかったのは先日の西木との事を相談したかったからだ。ビ
ールを二本空け、焼酎に切り替えたところで慎一郎が、実はと切り出した。
西木との四回の進展を最初から話した。
「今までの話の内容から考えたらもうあの人の信用は得られたと思ってたんや。それが今回、なに企んでるのやときたもんやから、すっかり自信を無くしてしまってねえ」
慎一郎は焼酎ロックをぐびりと飲んで続けた。「かといってな、ほかに畑を借りられる当てもない。あのハウスが駄目でもせめて下の露地を借りられたら、そこを拠点に将来広げて行かれるやろうとは考えてたんや。畑借りるちゅうのは、難しいもんやねえ。しょせん新規就農者なんてもんは、何処の馬の骨か判らんと思われてるんやなあって、今回ほんまにそう思ったわ」
平沼は頷きながら聞いていたが、途中でへへっと笑い始めた。
「今の農家にしてみたら、新規就農者なんてものは全く理解できん人間なんや。そりゃあそうやろ、自分の息子は土地もハウスもトラクターもあって、親身になって教えてくれる指導者が目の前におって、その上親は車を買ってやり、家を用意してやり、嫁さんまで世話しようという意気込みで誘いを掛けて、そこまでしても自分の息子は継いではくれんのやで。それが現実なんや。それをあんた、我々みたいに土地はない、機械はない、経験はない、指導者もおらん、それでも将来性のない農業をしたいやなんて、彼らにとっては摩訶不思議以外の何者でもないやろう。あほと違うかと思われとる。信用してくれと言う方が間違ごうとる。頭から疑がってかかって、そりゃあ何か企んどると思われて当然やろう。
四回や五回会ったからというて信用してくれるはずはないがね。馬の骨よ、馬の骨。しょせん我々は、彼らにとったら馬の骨でしかないんよ」
言われてみると確かにそうだと慎一郎も思った。
土地をもたぬ物は、何よりも土地が欲しい。
どんなに農業をする気があっても、畑や田圃がないとそれができない。二十坪や三十坪の土地ではどうにもならぬ。
「駄目で元々やないか。当たって砕けろや」 と平沼は気焔を揚げた。「そこが駄目なら次、次も駄目ならその次とどんどん当たってみろ。土地なんていくらも空いてるんや。これからもっと空いてくる。心配せんでいい、きっと見つかるよ。農家はお前さんを知らんから貸してくれへんだけなんや。本当は只でもええから借りてもらいたいと考えてるんや。知らない者に貸して先祖代々の土地を取られるのが怖いから、何処の馬の骨か判らん者には貸さんだけや。その土地に根付いてその土地で耕作を始めたら、向こうからやって来て、俺のところも借りてくれんかって言ってくるよ。本当や。俺がそうやったもの。百姓は、自分の土地が荒れていくのを見るのが一番辛いんやで」
平沼の言葉に勇気が出た。もう一度西木に会ってみようと思った。「それよりお前さん、嫁はんの説得はできたんかいな」
以前から言われていたことで、土地と並び慎一郎を悩ませているもうひとつの事柄であった。新規就農者は家族の協力がないとできない、特に奥さんがその気になってくれないと駄目だと、多くの人から言われていたし、その手の本にも書いてある。平沼と通った農業塾でも、夫婦の参加者は多かった。定年近かったり、すでに定年退職した人たちだったが、夫婦の新しい生き方を二人で模索しようとしている姿は、慎一郎の目に羨ましく映った。
妻の加奈子に初めて話した三年前の正月、彼女は最初から反対をした。
「あなたはいつも自分勝手だ」
となじり、「二人の子供たちを養って生活していけるの、マンションのローンの支払いもあるのよ」
現実的な問題点を心配した。当然のことだ。慎一郎は、失業給付と貯蓄で二年間は大丈
夫、それまでに事業を軌道に乗せるからと説得をし、
「今と同じ生活レベルは無理だが、アルバイトでも何でもして食うに困るようなことにはさせないから」
「マンションはどうするのよ」
「処分しよう。古い農家を借りればいい」
加奈子は首を振り、
「嫌よ。貧乏生活なんて私、嫌だわ。それに古い農家になんて住みたくもない。鼠や蛇でも出てきたらどうすんのよ」
何度も何度も話し合った。それでも加奈子は、私は嫌の一点張りで
「どうしてもやりたいのなら一人でやってちょうだい。私は農業なんかしたくないし、このマンションも出ていきたくないわ。やるならどうぞご勝手に」
と言った。彼女はチェーン展開するレストランで店舗開発部の社員として働いている。
それをそのまま続けてもらい、確実な現金収入のあるほうがよかろうと考え直した。
思い返せば、加奈子の両親からも自分は、何処の馬の骨かと思われていたのだ。

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